民族主義 第一講 總論
外務省調査部 訳編. 孫文全集, 第一公論社, 1939-1940. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001019495
諸君、本日は諸君と共に三民主義に就いて語りたいと思ふ。抑々三民主義とは如何なるものであらうか。之を最も簡單に定義すれば三民主義、即ち救國主義である。然らば主義とは如何なるものであるか。主義とは即ち一種の思想であり一種の信仰であり又一種の力である。凡そ人類が一事に対しその中の道理を研究せんとするに當つては、先づ思想生じ、思想貫通したる信仰起り、 信仰あつて初めて力を生み出すものである。故に主義とは思想に發して信仰に至り、信仰に依て力を生み出し、然る後完全に成立するものなりと云ふことが出来る。何を以て三民主義即ち救国主義と云ふや。三民主義は中國の國際地位の平等、政治地位の平等、經濟地位の平等を促進し、中國をして永遠に世界に適存せしめんとするものなるが故に、三民主義即ち救國主義なりと言ふのである。三民主義にして既に救国主義なりとすれば、試みに間はんに、我等今日の中国は救済を要すべきものなりや否や。若し果して救済を要すべきものとするならば、即ち當に三民主義を信仰すべきである。三民主義を信仰すれば、即ち其處によく極大なる勢力を生み出すことが出来。此の極大なる勢力こそはよく中国を救ふことが出来るであらう。
本日は先づ民族主義に就いて語りたい。今次國民党の改組に當つては、救國方法として宣傳に重きを置いた。国人に對する普遍的の宣傳に最も必要なるは主義の演明である。中間に於ては最近十數年來、多少にても思想を有するものならば、誰しも三民主義に就ては聴き慣らされて居る に違ひない。けれども之を徹底的に了解して居るものは恐らく極めて少ないであらう。依て本日 は先づ民族主義に就いて詳細講義したいと思ふ。では民族主義とは如何なるものであるか。之を中国の歴史上社會の習慣等の諸情形に按じ、一言以て之をへば、民族主義は即ち國族主義であ る。元来中国人の最も崇拝するところのものは家族主義と宗族主義である。て中国に於てはた だ家族主義、宗族主義あるのみにして國族主義がない。だから外國の傍観者は、中國人は一片の散沙 (民族主義参照) であると言ふ。その理由とするところは何處にあるであらうか。即ち一般人民にだけ家族主義と宗族主義とのみあつて國族主義がないからである。中國人は家族及び宗族の團結力は非常に強大であつて、往々宗族を保護する目的の爲には一身一家を犠牲にする。かの廣東兩姓の争闘に於て、兩族間には幾多の生命財産の犠牲も顧みられず飽く迄闘を休めやうとせざるが如きはその一例であつて、之はすべて彼等の宗族観念の深きに終因する。そして此の主義が深く人人の心に喰入つて居るがため、犠牲をも敢てせないのであらう。然しながら其の國 家に對するや、未だ曾て一度たりとも此の極大の精神を以て犠牲を敢てしたものはない。だから 中國人の團結力は宗族に止まり、未だ國族に迄張せられて居ないと言ふのだ。
余は民族主義は即ち国族主義なりと説いた。之は中国にはよく嘗てはまる。けれども外には 常てはまらない。外國人は民族と國家とを追別して説いてゐる。英國では民族と言ふことを「ネーション」と言ふ。「ネーション」には二様の解があり、一つは民族他は國家とする。斯様に一字に二つの意味はあるが、彼等の解は非常に明瞭であつて決して混同する様なことはない。又中國の文字の中にも一個の字で兩様の解釋あるものが頗る多く、例へばと言ふ二字の如きも、二つの用法があつて一は一般人の群を指して言ひ、他は一種の組織ある團體を意味する。 元来民族と國家とは相互的關係のだ多いもので、之を別々に考へることは出来ないが、共の中にも 自ら一定の限界はある。画家とは如何なるものなりや、民族とは如何なるものなりや、我等は必す之を區別して置かねばならぬ。余は民族は即ち族なりと説いたが、それが何うして中国にのみ當てはまり、外國には當てはまらないと言ふのであらうか。 中國は秦漢以後すべて一民族が一国家を造成して来たが、外国では一民族で幾つもの國家を造成するものあり、一国家内に幾つもの民族を包含するものがあるからである。即ち英國の如きは現在世界最強の國家であるが、其の国内の民族は白人を本位とし、之に銅色人、黒人等の諸民族が結合して始めて、大「ブリテン」帝國を形成して居るのであつて、てこの場合英國にあつては民族即ち国族なりとの一話は如何 にも不適當である。 又香港の如きは英国の領土ではあるが、其の中の民族には幾十萬人の中国の 漢人があるのであるから、若しも之を香港の英國國族即ち民族と言ふならば、甚だ可怪しなものではないか。更に又印度の如き現にやはり英国の領土であるが、 英國國族と言へば、其の中には 三億五千萬の印度人も當然含まるべきで、而して之を印度の英國國族即ち民族と言へば、 之れ亦頗る變なものではなからうか。誰しも知つて居る通り、英國の基本民族は「アングロ・サクソン」 人で、此の「アングロ・サクソン」人は英國のみに存在する許りでなく米國にも亦多數存在して 居る。斯した譯で外国では民族即ち國族なりと言ふことは出来ないのである。中国でこそ民族即ち國族で通用はするものの、元来民族と國家とにはもともと一定の限界があるものである。之を明瞭に傴別せんが爲には、我等は如何なる方法に依るべきであらうか。それが爲には民族と国家とが根本上如何なる力に依て造成せられたものであるかを究むるのが、最も適當な方法であらう。
此の方法につて簡単に別すれば、民族は天然力に依り造成せられ、國家は武力を用ひて造成せられたものなりと云へやら。中國の政治歴史を以て之を證明すれば、中國人は王道は自然に順ふものなりと説く。これを換言すれば自然力即ち王道であるが、此の王道を以て造成せられた團體が民族であり、穴に武力は即ち覇道であるが、此の覇道を以て造成せられた團が家で ある。かの香港が造成せられた原因は、決して幾十萬の香港人が英國人を歓迎して出来上つたも のではなく、曾て英國と戦って敗れた中国が香港の人民及び土地を挙げて英國に割譲し、 英國人之に割據し、久しくして纔現在の香港を造成したのである。又英國が今日の印度を造り上げた のも、其の経過情形を辿って見れば、香港同様で、之等は共に道に由つて出来上つたのであ る。現在英国の領土は全世界に張せられて居る。 そして英國人の俗語に「英帝國に落日なし」 と云ふ一句がある。換言すれば、日日夜太陽の照すところすべて英國の領土ありとでも言ふべ きところであらう。例へて見れば、若し我等東半球上にある人が、日出と共に「スタート」する とき、太陽は先づ「ニュージランド」、「オーストラリア」、香港、新嘉坡を照し、次いで西の方 「セイロン」、印度を照し再び西して「アデン」、「マルタ」更に西して本国を照し、そして再び 廻轉して西半球に至り「カナダ」を照して香港、新嘉城へと再び循環するであらう。これ一日二十四時間の間太陽の照すところ、必ず英國領土ありと云はれる所以である。斯の如き英の大なる領土は一つと雖も覇道を用ひずして造成せられなかったものはなく、 これは單に英國許りではない。古今來如何なる国家でも、之を造成するが爲には覇道を用ひないものはなかつたの である。併しながら民族の造成に至つては、即ち相同じからず、完全に自然に依り、も無理を 加ふることは出来ないのである。 香港十萬の中國人の如きは、自然裡に團結し一個の民族とな つたもので、如何に英國が覇道を用ゆればとて改變することは不可能である。だから一つの にして王道に依り自然力に依って結合して成りしものが民族であり覇道に依り人爲力に依つて結 合せられて成りしものが國家であつて、これ即ち家と民族との區別である。
次に民族の起源に就いて語りたい。世界の人類はもと一種の動物であつて、ただ普通の飛禽走 獣と異なる點は、人間が物の長たるところにある。 人類の分別法としては、第一は人種別で 白色、黒色、赤色、黄色、銅色の五種に分つ。更に之を種によつて細分すれば幾多の族があり、 例へば「アジア」民族の如き、その著名なものに蒙古族、馬來族、日本族、滿族、漢族がある。 此の種々なる民族を造成した原因は、概括的に言へば自然力である。自然力を分析すればだ複 雑であるが、その中最も大なる力と云へば血統であらう。 中國人が黄色なる原因は、黄色の血統に根源して成りしものなるに因る。祖先の血統は如何なるものでも永遠にその一族に遺傳する。 これ血統の力が最も大なる所以である。 次に大なる力は生活である。 生活方法の同じからざる場 合、その結成せる民族も亦相同じからす。蒙古人の如く水草を逐ふて居住し遊牧を以て生活をな すものは、水草のあるところ遊牧に便なるところならば、何處へなりとも居を移す。この種遷居 の習慣は又一箇の民族を結成し得るものである。 蒙古が忽然として強盛をし得たのは、即ちこ れに基く。 蒙古族はその最も強盛を極めし時代、元朝の兵を以て西の方中央亞細亞「あらびや」及 び歐洲の一部分を征服し、東、中國を統一し日本をも征服せんとし殆ど歐亞を統一した。之をそ の他の最も強盛なりし民族に就いて見るに、漢族のその武力最も大なりし唐の時代に於てすら、に西、裏海に至りしに過ぎず、 又羅馬民族の如きも、その最大の武力を傲りし時代でさへも、東部に黒海に達したに過ぎなかった有様で、未だ曾て蒙古族の如く一民族が武力を以て歐亞兩 洲を征したものとではなく、ただ元朝を樹てた古民族のみが斯くも強盛を極めたのである。 而して蒙古民族が斯くも強盛を極めた原因こそは、彼等人民の生活が遊牧にあり、日頃の習慣上 如何なる遠路をも恐れざるの長所があつたからのことである。 第三に大なる力は言語である。若 しも外来の民族が我等の言語を得するものと假定すれば、それ等の民族は容易に我等に感化せられ、久しい間には途に同化されて一民族となつて了ふであらう。又之に反し、若しも我等が外 國の言語を知るものと假定するならば、我等も容易に外国人に同化せられることとなるであら う。單に言語ばかりでもその通りであるから、更にその上言語と共に人民の血統迄同じきものと したならば、同化の効力は更に一杯容易なるものがあるであらう。これ言語も亦世界に於ける民 族造成に大なる力ありと言ふ所以である。第四の力は宗教である。凡そ人類は相同じき神を奉拜 し或は相同じき祖宗を信仰することに依って、又結合して一箇の民族を成し得る。宗教は民族を 造成する力の中に在って、 又甚だ雄大なるものである。かの「アラビア」太風の如き、亡 びて既にしきにも拘らず、「アラビア」人と縮太人とは、今に至る迄依然存在して居るのである が、彼等の如く國家亡びて民族のよく存在し得る所以は、實に彼等は各自分達の宗教を持つて居 るからである。誰しも知つて居る通り、現在猶太人の各國に散在するもの極めて多く、世界に於 て極めて有名な學者、例へば「マルクス」の如き「アインシュタイン」の如きは、何れも猶太人である。更に現今英米各国の資本勢力の如きも猶太人に操縦せらるるところである。 猶太民族は、天質頗る聰明にして加ふるに宗教的信仰がある。故に流離して各国に遷徒すと雖、よくそ の民族を長久に維持することが出来たのである。 「アラビア」人のよく存在し得る所以も、やはり彼等に「モハメッド」なる宗教あるがために他ならない。 その他佛教を信奉すること極めて深 き民族、例へば印度の如きは、家は滅びて英國の手に帰しては居るけれども、其の種族はやはり 永遠に消滅せしむることが出来ないのである。第五の力は風俗習慣である。若しも人類中に一種 特別の相同じき風俗習慣を有するものありと假定せば、久しい間には、又自ら結合して一箇の民族と成ることが出来るであらう。 我等は幾多の相同じからざる人種が、そのよく結合して種々の 相同じき民族となる所以の道理を研究して、自然之を血統、生活、言語、宗教及び風俗習慣の五 種の力にした。この五種の力は、天然に進化して成るものであつて、武力征服に依つて得られ るものではない。故にこの種の力と武力とを比較することに依っても亦民族と国家とを別する ことが出来る。
我等古今の民族生存の道理に鑑みるに、中國を救ひ、中國民族をして永遠に存在せしめんがた めには、必ず民族主義を提唱しなければならぬ。民族主義を提唱せんが爲には、必ず先づこの主 義を完全に了解することが必要である。然る後初めてよく之を發揮し大して國家を救ふことが 出来るであらう。 中國民族は數四億人、その中他民族としては數百萬の蒙古人百餘萬の満洲人 數百萬の西藏人百數十萬の回の突厥人あるに過ぎず、之が總一千萬に過ぎないから、大幅に於て、四億の中国人は完全に人にして、同一血統同一言語同一文字宗教及び同一の習慣を有する完全なる一個の民族なりと言ふことが出来ると思ふ。
我等の此の民族は、現在世界に於て如何なる地位にあるであらうか。之を世界各民族の人數よ り比較すれば、我等は人數に於て最も多く民族としても最大である。四千餘年の文明教化も亦まさに欧米に比して勝れりとも劣るところはない。ただ中國人には家族及び宗教の團體のみがあ つて民族的精神がない。 従て四億人が結合して一つの中国を形造つては居るものの、實際は一片 の散であつて、今日世界に於て最も貧弱なる国家となり、国際的には最も低い地位にある。 人は刀であり爼であり我は之に料理せらるべき魚であり肉である。 我等の地位今日より危険なるはな い。若し果して心を留めて民族主義を提唱し、四億人を結合して一個の堅固なる民族と爲すにあ らざれば、中國は亡滅種の憂があるであらう。 我等はこの危亡をするため、民族主義を提 唱し、民族精神を以て國家を救はねばならぬ。
民族主義を提唱し中國の危亡を挽せんがため、我等は先ず我民族の危険が奈邊にありやを知 らねばならぬ。又その危険の情形をも知らねばならぬ。 これが爲には中国人と列強人民とを比較 するのが最もいい方法である。 比較することに依つて、危険は更に明かになるであらう。歐洲大戦前世界で列強と稱せられたものは、最大の英國、最強の獨國、 墺國、 露國、最富の米國、新興 の日本及び伊太利の七八ヶ国であつたが、戦後獨墺露の三國は倒れ、現在のところ一等強國とし て残るは英米、佛、日及び伊の五図である。 英、佛、露、米の各國は何れも民族を以てを立 てて居る。英國の發達に貢した、基本的民族と云へば「アングロサクソン」人、基本的土地 は「イングランド」及び「ウエールス」であり、その人口僅に三千八百萬に過ぎず、之を純粋の 英國民族と言ふことが出来る。この民族は現在世界に於ける最も強盛なる民族であつて、その造 成するところの國家は世界最強盛の家である。その百年前の人口は凡そ一千二百萬位であつた ものが、現在では三千八百萬となり、百年間に三倍に増加した。
我等の東方に、東方に於ける英國とも言ふべき島がある。この國家こそ日本である。日本も 一民族を以て造成せられたもので、その民族を大和民族と呼ぶ。 建國以來今日迄未だて外 の併合を受けたことなく、元の強盛を以てしても彼等を征服することが出来なかつた。 彼等現在の人口は朝鮮、臺灣を除いて五千六百萬である。その百年前に於ける入口の確數は知り難きも、 之を近来の人口増加率に依り比較計算して見れば、三倍の増加に當る。故に百年前の日本の人口 は約二千萬を上下して居たものと見て差支へない。この大和民族の精神は、今に至るもほ喪失せず、故に歐化の東海に乗じ、歐風米雨の中に在つて、科學の新法を利用し國家をせしめ、維 新後五十年、よく現在の如き亞細亞最強盛の国家を成し、米とその勢を競ひ、欧米人も敢て之 を軽視せざるに至った。
然るに我中国の人口は、如何なる一回に比しても大なるに拘らず、今日に至る迄外人に軽視せ らるる原因は何處にあるであらうか。即ち一つは民族主義を有し、一つは民族主義なきに因る。 維新前に於ける日本は国勢の衰微しく、その領土も四川一省の大さに過ぎず、その人口も四川 一省の多きに及ばず、 又弱小国の例に洩れず外国の歴迫的恥辱を受けて来たものである。然しな がら、彼等には民族主義的精神があつて、大いに發奮し、五十年を出ですして遂に世界列強の班 に列し微せる家をして強盛なる画家たらしめた。 我等中國の強盛を欲するものにとつて、 日本は一つの模範であらねばならぬ。
亞細亞人を歐洲人に比べて見るに、従前世界で聰明にして才智あるものと言へば、白人に限ら るるものの如く考へられ、萬事白人に壟断せられて居たものである。従て我等亞細亞人は彼等自 人の長所を得することが出来ても、一時如何様にも画家を富強にする方法がなかったのであ る。だから国家を富強にしやうと云ふ意思は、單に中國人許りでなく、一般に亞細亞各民族からはれて居た。ところが近來に至り、日本が忽然興起し、世界一流の富強風となった。日本がよく富強たり得たため、亞細亞諸國にも無窮の希望が生れた。 思ふに日本従前の国勢は、現在の安南緬甸同様であつたが、現在では現在の安南緬甸等迎も日本と比べものにならない。これ詮する ところ日本がよく歐洲を孕んだがために、維新後の短期間に於て、歐洲に追付くことが出来たの である。歐洲大戰休戦後、列強は「ベルサイユ」に於て世界の平和を議したものであるが、その際 日本の国際的地位は五大強國の一に列し、列強は事の亞細亞に闘する限り、すべて日本の主持す るところに従したものであつた。惟ふに日本のこの事に就いて見るも、白人のすること位は日 本人にも結構出来、世界の人種は顔色の相違こそあれ、その聰明才智に至つては何等區別し得る ものでないと言ふことが分かる。かくて今日亞細亞は強なる日本を有するがために、世界の白色人種は、敢て日本人を軽視せざるのみならず亞細亞人をも軽視しない。故に日本が強盛となつ てからは、大和民族一等民族の尊榮を享くることが出来たのみならず、その他一般の亞細亞人 その國際的地位を高することが出来たのである。曾ては歐洲人に出来ることも我等には出 来ないと考へられて居たものであるが、現在では日本人が歐洲をび得るとすれば、我等も亦日本を擧び得學んで日本の如きに至り得るとせば、又將來んで歐洲の如きに至り得るものなることを知ることが出来るのである。
「ロシア」は歐洲大戦中革命が起り、帝制を打破して、従来と全くその趣きを異にする社会主 義的な一新國家を打建てた。彼等の民族を「スラブ」と云ふ。百年以前四千萬なりし人口は現在 では一億六千萬となり、百年の間に四倍に増加し、國力も四倍に増大して、最近百年の間「ロシア」は實に世界最強の國家であつた。日本や中国が彼の侵入を恐れた許りでなく、歐洲の英國 獨も彼の侵入を恐れたものである。 彼等は帝政時代、専ら侵異政策を以て領土の携張に再念 し、今や露國の疆土は、歐洲及亞細亞に一宛を占め、領土は歐亞洲に跨って居る。斯の如き彼等の大領土は、すべて之を亞の兩洲より侵略したものだ。かの日露戦役に當り、各国人は齊しく 韓国が中国の領土を侵略せんことを恐れたが、彼等が露國の中國侵略を恐れた理由は別にあつて、 即ち中國が露に侵占せられた暁、 又再び世界各国の侵略を始め、諸國之に侵占せらるること を恐れたが故に他ならない。露國人はもと世界併吞の志を抱いて居た。それがため世界各国はそれ ぞれ何等かの對抗方法を講じて来たもので、日英同盟の如き、即ちこの併政策の對抗策として 出来たものである。だが結局、日露戦争に依り日本は露國を朝鮮南滿地方より驅逐して、遂に露國の世界侵略政策を覆し、東亜の領土を保持して世界に一大變化を興へた。降つて歐洲大戦後露國人は自ら帝國主義を推翻し、帝國主義的國家を變じて新しき社會主義的國家たらしめ、世界に更に大なる化を齎らしたのである。この種變化は成功後に六年に過ぎないが、彼等はこの六年間に内部の組織を改め、従前の武力的政策を棄て平和新政策に改めた。 この政策は、各國 を侵略する野心なきのみか、進んで強きを抑へて弱きを抜け公道を主持するものであつて、弦に 於て世界各国は又しても露を恐るに至り、現在では各國の恐露心理は従前に比し更に激しい ものがある。何故ならば、この平和新政策たるものは、露國自身の帝國主義を打破する許りでなく、同時に世界の帝国主義を打破せんとするものであり、世界の帝国主義の打破のみならず更に 進んで、現在各國の政権が表面上政府を主とするに拘はらす事實資本家の手に依つて支持せられ2 つあるの故を以て、世界の資本主義をも打破せんとするにあるからである。 露の新政策はか く資本主義を打破せんとするものなるが故に、世界の資本家の間に大恐慌を来し、世界が之がた め一個の極めて大なる變動を生じ、 この大變動に因り、 その後の世界の大勢もつて改變せられた。
歐洲戰争の歴史に就いて言へば、従前絶えず發生しつあつた國際戦争の最近のものである歐洲戰爭は、獨墺土「ブ」の諸同盟と英、 佛、露、日、伊、米の諸協商と相手つたもので、四ヶ年に亙る大戦を經過し、筋疲れ力盡きて始めて停戦を見た次第であつた。この大戦後、世界の先知先 覺者達は、將來歐洲はその焦點となることはなきも、更に別種の國際戦争を引起すべきはがれ 難きところなりとなし、或るものは又一場の、例へば黄、白兩人種の戦の如き人種戦争を豫想した。然しながら露國のこの新しき變動を生した今日、余 (孫文)が個人として既往の大勢を観察し將來の潮流を測するに、國際間の大戦は所詮兎るべからざるものではあるが、その戦争は 異なる種族間に起らずして同種族の間に起り、白種と白種と相分れて戰ひ、黄種と黄種と相分 れてふに至るべく、 それ等の戦争は階級戦争であり、被迫者と横暴者との戦争であり、 公理と強權の戦争であらねばならぬ。
露國革命後「スラブ」 民族は如何なる思想を生み出したであらうか。彼等は強きを抑へ弱きを 抜け富める歴し貧しきを濟はんことを主張したのである。これら世界に公道を伸張して不公 平を打たんとするに他ならない。この思想の歐洲に宣傳せらるや、各種弱小民族はつて之を歓迎した。そして現在の虞、最も之を歓迎するものに土耳古がある。 土耳古は、歐洲戰前最貧最 弱の國家で國勢徴して振は、歐洲人は彼を呼んで近東の病夫となし、早晩滅亡すべきものと 考へてゐた。歐洲大戦には獨國側に加入したが、協商國のために打破られ、各國が更に之を分割せんとするに至つたので、土耳古の国勢々として危く殆ど自存することも覚束ないやうになつ た。その後露國出で不公平を打ち、彼を助けて希臘を敗り、一切の不平等約を改修した。そ して現在では、假令世界の一等國と言ふことは出来ないにしても、既に歐洲二三等國の班に列す ることが出来たのである。然らば之は如何なる力に依りしものであらうか。 これ全く露國人の投 助に依るものである。敍上を以て推論すれば、將來の趨勢は必ずや、何れの民族も如何なる國家 も、歴迫を受けて居るもの又は屈辱を受けて居るものは、すべて必ず一致聯合して強権に抵抗せ ねばならなくなるであらう。然らば如何なる國家が被迫國家であらうか。歐洲戰前英佛兩國は獨逸の帝國主義を打破せんとし、 そして露も彼等の一方に加入した。 その後露國は無数の生命 財産を犠牲にしたが、遂に中途に師を回して革命を宣布した。之は抑も何が故であらうか。之は 露國人の受くるところの歴迫がしかった爲である。故に去って革命を起し、彼等の社會主義を 實行し強權に反抗したのである。當時歐洲列強は、皐つてこの主義に反對し、 共同出兵をして彼 を打たんとした。幸に「スラブ」民族の精神を有する露國は、私によく列強を打破するを得た。そし て今に至る迄列強は露國に對し武力を以て反對し得ず、僅に彼の國家の不承認て消極的抵抗を 以てするに止まつて居る(現在では英國は既に正式に露を承認して居る)。何が故に歐洲各國はの新主義に反封するのか。それは歐洲の各国人は侵略を主張し、強權があつて公理がない。然 るに露國の新主義は公理を以て強権を撲滅せんことを主張するからだ。この主張の爲に列強と相 反目し、そして列強は今に至る迄、彼を消滅せしめんとの意志を捨てないのである。 露も革命 前迄は矢張り強權あつて公理なきを主張する一個の甚だ頑固なる国家であったものだ。ところが 現在ではこの主張に反對する。 各国は韓国がこの主張に反射するが爲に一斉に出兵して露風を打 つたのである。以上は世界現下の大勢であつて、この大勢に鑑み、余は今後の戦争は強権と公理 との戦争なりとかんとするものである。今日の獨國は歐洲に於ける被壓迫國家であり、又亞細亞に於ては、日本以外のゆる弱小民族は、すべて強暴な壓制を被り種々の痛苦を受けて居る。
同病相憐れむ彼等は將來必ずや聯合して強暴なる國家に抵抗せんとするであらう。 多数の被歴迫 的國家は必ずや彼等強暴なる国家と身命を賭して一戦せんとするであらう。之を全世界に推し めて考ふれば、將來公理を主張する白人と、公理を主張する黄人とは必ず聯合し、強權を主張す る白人と強權を主張する黄人とも必ず聯合し、この二つの聯合のあるところ、一場の大戦は発 るべくもないであらう。これ即ち世界の将来に於ける戦争の趨勢であらねばならぬ。
獨國は百年前人口二千四百萬を有し、歐洲大戦の爲め多大の減少を見たと言ふもの、現在まだ六千萬はあるであらう。 して見ればこの百年間に二倍を増加したことなる。その人民は「チ ュートン」民族と呼ばれ、 英國人に似て至つて聰明である。 故に彼等の国家は強盛を極めたもの である。だが歐洲戰に武力に失敗して、後は自然公理を主張するの必要に迫られ、強権を主張す ることが出来なくなった。
米國の人口は百年前九百萬に過ぎなかったものが、現在では一億以上に達してその増加率極め て大なるものがあり、百年間に十倍に増加した。 彼等の斯くの如き多数の増加人口は、大半 歐洲より移民して来たもので、本國に生育せしものではない。これ等歐洲國人民は、何れも最 近數十年來歐洲の人口過剰に累せられ、本國に居ては生活の途なきために米國に渡来して生活を 謀りしものに他ならない。 米國の人口は、これ等の移民に依って頗る急速に増加したのである。 即ち各國の人口増加は大部分生育に依るけれども、米国の場合は大部分移民の收容に依ったので ある。故に米國人の種類なるものは、何れの國に比較してもより複雑で、各洲國の移民が含まれ て居る。けれども一度其の米國に至るや、そこに鎔化作用が起り所謂「合一而冶之」で、自ら一 種の民族となつて了ふ。そしてこの民族は、もはや在来の英國人、 佛國人、獨國人でもなければ 又伊太利人でもなく、その他南殿人でもなくなつて、こに別個の一新民族となる。之を「アメリカ」民族と呼ぶことが出来る。 斯様に米國には獨立の民族がある。そしてこの民族あるがためによく世界の獨立國家となつたのである。
佛国人は「ラテン」 民族である。「ラテン」民族は歐洲諸国に散在し西班牙、 葡萄牙、 伊太利に あり又「アメリカ」に大陸諸國に移住して墨西哥、「ペルー」「チリ」「コロンビア」、「アルゼンチン」 「ブラジル」その他中央「アメリカ」の諸小国に居住する。かく南「アメリカ」大陸諸國の民族が すべて「ラテン」人であるところから、米國人は彼等を「ラテンアメリカ」と呼んでゐる。佛 國の人口増加は頗る緩慢で、百年前に千三萬なりしものが、尚ほ三千九百萬で、百年間に僅かに 四分の一の増加に過ぎない。
今世界の人口増加率を比較するに、最近百年の裡、米は十倍、 英國は三倍、日本も亦三倍、露 歯が四倍、獨賊が二倍、佛は四分の一の増加である。この百年間に於ける人口の増加顕著なり 理由は、科學の進歩、醫學の、 衛生設備の完成とに依り、死亡減少し生育を増加したるに基 因する。然るに顧みて中國は如何。各國の人口増加と中國の人口のそれとを比較して来るどき、 余は真に竦然たらざるを得ない。例へば米國人口の如きは百年前九百萬に過ぎざりしもの今や一 俺となり、更に一百年の後にも、依然舊來の増加率に止まるとしても、何十億の多きに至るべきであらう。中国人は常に自ら誇らげに、我人口は多數にして容易に他に消滅せらるべきものでな い例へば、元朝は中國に主となったが、彼等蒙古民族は中國人を消滅し能はざりしのみならず 却て中國人のために同化せられ、中國は亡びない許りか蒙古人を吸収して了つた。 又滿洲人も 中國を征服し二百六十餘年間これを統治してゐたが、やはり中国人を消滅することなく、 却て漢 族と同化するところとなり、漢人に變成した。現に満洲人がすべて姓を有するが如きも之が事質 を裏書するものに他ならないと説いて居る。断した理由から多くの者達は、假令日本人又は 白人が中國人を征服するやうなことがあっても中国人は日本人又は白人種を吸収するだけの話で あるから、安心して可なりと考へてゐる。さうした彼等は、百年後米國の人口が十億となり、我 入口に二倍すると言ふ事に就いては、一向氣が付かないで居る。實際、従前滿洲人が中國民族を征服することが出来なかったのは、彼等が僅か一百數十萬の人口を有しに過ぎず、 中國の人口に比して、その数が餘りにも少なかったがため中國人に吸収せられたのであるが、若しも假 りに米國人が来つて中國を征服するとしたならば、かの百年の後には米國人の十の中四の中国人 が参離するに過ぎなくなり、恐らく中國人は米國人の同化するところとなつて了ふに違ひない。 諸君は中国の人口四億なりとは、何時頃の調査か御存知であるか。それは滿清乾隆時代の調査にかり、その後調査せられたものはない。 乾隆より現在に至るまさに二百年に及んで居るが、依 然四億、百年前に四億で現在も四億とすれば、この割でゆくとすれば、百年後も當然木四億と推定 されなければならない。 佛國は人口過少のため出産育兒を奨励し、一人にて三子を生むものは樊 せられ、四五人のものは更に重く樊せられ、雙子を生めば特別の樊あり、男子にして三十歳に至 るも娶らず、女子にして二十歳に至るも嫁せざるものに封しては罰ありとのことである。これ佛の奨励する出産育児の方法である。かくも生育を奨励する佛ではあるが、その人口は決して減少する譯ではなく、單にその増加率が他國より大きくないと言ふだけで、然も且つ佛國は農業 を以てを立て、富み民豊かにして、日々皆快楽に耽ると言った結構な柄である。百年前 「マ ルサス」なる英國の學者は、世界の人口過剰と物の供給に限りあることを憂え、人口の減少を 主張し一種の學説を創立して謂「人口は幾何級數的に増加し、物産は算術級數的に増加する」 と。この説は快楽を追究して止まない佛國人の痛く共鳴するところとなり、 非常な歡迎を受け た。そして男子は一家を扶養するの義務を負はず、女子は子を生み子を育つる必要なしと主張し、 彼等は人口減少の方法として、單に種々な自然的方法を用ふる許りでなく、又幾多の人爲的方法 を用ふるに至った。そして百年前何れにしても多数であった佛の人口は、「マルサメ」説を宜し大歓迎して一般に人口の減少を實行しため、今日の如く人口過少の痛苦を受けねば ならなくなったのである。これすべて「マルサス」説の中毒に因るものに他ならない。現今中國の新青年の中にも亦「マルサス」學説に染り人口の減少を主張するものあるは、佛國が既に減 少の苦痛を知り、新政策を施行し、人口の増加、民族の保存を提唱し、佛國民族をして世界民族と共に永久に存在せしめんと努力しつあるを知らないからである。
我人口は今日果して何の位あるであらうか。人口の増加率は、假令英國日本には及ばないとし ても、乾隆時代より算へ来れば、少くとも五億はある筈である。ところが曾て米国公使「ロック ヒル」が中國各地に就き調査したるところに依れば、中国の人口は多くも三億に過ぎずと説かれ て居る。では我等の人口は結局何れ程であるであらうか。乾隆のとき既に四億あつたのであるから 米国公使の調査に握るとすれば、己に四分の一の減少である。 そこで現在四億はあるとしても、 之を類推すれば、百年後に於ても恐らく依然四億に止るであらう。
日本の人口は現在のところ六千であるが、百年後には二億四千萬となるべき筈である。現に 彼等は既に人口過剰であつて本國だけでは、とても生活し切れないところから、彼等は各國に向 つて訴へて言ふ。島の人口過多にして海外に向って發展せざるを得ずと。事實日本は東、 米國は何等關係のないことだと。
に於ては「カリフォルニャ」州は門を閉して納れず、南洲も、英國人は、洲は自色人の漆 洲なりと説いて別色人種の侵入を許容しないと言ふ有様で、日本は到るところ拒絶せられ、八方 塞がりの態にある。だから彼等は又、各園に向って事情を打明けその諒解を求めて言ふ、 日本人 は他に行くところがないから洲や朝鮮をせざるを得ないと。之に封し、各人も明かに 日本人の意思を諒とし、彼等の要求を容れて以爲らく、日本が中國に殖民したつて自分に一百年後全世界の人口は必ず倍にも増加するであらう。 獨佛の如き今の大戦に於て多 大の死亡者を出したが、やはり必ずや戦前の状態を恢復して出産育児を獎勵し二三倍の増加を示 すであらうと思はる。百年後の問題はさて措き、單に現在の全世界の土地と人口とを比較して 見ただけでも、既に人口過剰の患がある。だから今の歐洲の大戦の如きも、或る人は之を「打太 陽」の地位なりと説いてゐる。 と言ふのは、歐洲列強の多くが半ば寒帯に近く、戦争の原因は、 互に赤道及溫帯地方の土地を争った點にあり、太陽の光を争ったものと言ふべきであるからだ。 中国は全世界中氣候最も温和にして物産最も豊富な地方に位する。この中國を各が一時に併合 することの出来なかった原因は、彼等の人口が中国のそれに比較して遙かに少なかったが爲に他ならない。けれども百年後に至つて、依然我等の人口が増加せず、彼等の人口のみが大なる増加 を遂げたとしたならば、彼等の多數を以て少數を征服することなり、必らすや中國は彼等のた め併合せらるに至るであらう。そのときに至らば、中國は香に主権を失ふのみか、國も亡びる であらう。そして中國人も同時に彼等の民族に消化せられて、種族の滅亡を招来するであらう。 從前蒙古洲が中國を征服したるが如きは、少数が多数を征服し多数の中國人を利用し彼等の奴 隷たらしめんとしたに過ぎなかったのであるが、若し將來果して列強が中國を征服せんとするや うなことがあれば、多數を以て少数を征服することなり、彼等は我等を奴隷とする必要さへも ないのである。 我等中國人は、そのときに至つては奴隷にさへもなり得ないであらう。