第二講 列強壓迫下に於ける中國
外務省調査部 訳編. 孫文全集, 第一公論社, 1939-1940. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001019495
古より民族興亡の原因は、人口の増減に由るものが甚だ多い。これ天然の淘汰である。 人類は 天然の淘汰力に遇へば抵抗することが出来ない。故に古より幾多の民族あり、幾多の有名なる民族があつたけれども、現在の人類中には悉くその跡を絶つて居る。我中國民族も赤だ古い民族 で、記録の存する限りの歴史に就いて見るに、既に四千餘年を経て居る。故にこの點から推究すれば、我民族は發生以来少くとも五六千年は經たものと必せられる。 その間幾多の天然力の影響 を受け来り、遺傳して今日に至つたが、も我等の消滅を来たさざるのみか、 却て我等を繁盛せ しめ四億人に生長せしめた。之を世界の民族と比較すれば、 我等は依然最多にして最大なる民族 である。これ我等民族の受くるところの天恵が他の民族に比較して獨り厚きに他ならず。故に天 時人事共に變遷を經過せるにも拘らず、有史以来四千年た文明の進歩を見て民族の衰微を見ず、代々相傳へて今日に至り、依然として世界最優秀の民族たるを失はないのである。故に一般の楽観主義者は以爲らく、中國民族は之迄災害を経過すること幾許なるやを知らざるに、今 に至る迄滅亡せず、従つて今後とても如何なる災害を經過するとも決して滅亡には至らざるべし と。この種論調は、この種希望は、余の見解に従へば間違ひである。 何故ならば、單に天然の湖 法力のみより云へば、或は我民族は生存し得るであらう。けれども世界の進化力は、天然力許 ではなく天然力と人爲力とが湊合して成るものであり、然もこの人の力量たるやよく天工を 巧奪することの出来る位偉大なる力のあるもので、所謂人事天に勝つである。この人爲力の中最 大のものが二つある。即ち一つは政治力にして他は經濟力である。この二つの力の民族の興亡に 及ぼす關係は、天然力に比し、遙に大なるものがある。 今日我民族は、世界の潮流の中にあつて、この二つの力の圧迫を受くるのみならず、深くこの二つの力の禍害に中毒して居るのであ中國は幾千年來政治力の圧迫を受け二度も完全に滅亡して居る。即ち一回は元朝に依り、他は 清朝に依つてである。去り乍ら、この兩の亡國はすべて少数民族に依って亡ぼされたのであつて、多數民族により亡ぼされたものではない。従つてそれ等少数民族は総じて我等多數民族の同 化するところとなった。故に中国は政権上では二度も亡びては居るが、事實民族そのものは何 等大損失を蒙むつて居なかったのである。 列強の民族の現状に至つては従前と大いに相同じから ざるものがある。一百年以來列國の人口増加は甚だ多かった。既に比較して置いた通り、英露兩國の人口の如きは三四倍に増加し、米国は十倍に増加した。この過去一百年間の増加率に照して 今後一百年の増加を推測すれば、我民族は一百年後に於ては、如何に天惠が深厚であらうとも、 到底列強民族と世界に並存することは困難であらう。例へば百年前九百萬に過ぎざりし米の人 ロが、現在では一億以上となり、更に百年後には十億以上となるべく、英獨露日の人口もすべて 幾倍加せんとするのである。だから之に由って推測すれば、百年後には我等の人口は少數とじ 列強の入口が多数となるであらう。そのときに至らば中國民族は、敢て政治力や經濟力の圧迫がなくとも、單に天然の進化力のみを以て推論するも、中国の人口はもはや滅亡の他はない。 況や百年後に於ては、我等は天然力の淘汰を受くるのみならず、同時に政治力經濟力の圧迫を受けね ばならぬ。然もごの二つの力は、之を天然力に比較して、更に速かにして且つ激烈である。
天然力は極めて漫なものではあるが、やはり大民族を消滅せしめ得る。即ち今から百年前の 一先例を引用して之を證明して見やう。かの南北「アメリカ」大陸の紅蕃の如きはその一例であ らう。「アメリカ」大陸は二三百年前に在つては完全に紅蕃の土地であつて、彼等の人口は非常に 多く到る虚に生存して居たものであつたが、白人の「アメリカ」大陸に移住するに伴ひ、その人 口は漸減少し始め、現在に至つて殆ど消滅した。之に由ても天然の淘汰力も大民族を消滅し 得るものなることが判るであらう。
政治力と經濟力とは、天然の淘汰力に比して、更に速かに更に容易に大民族をも消滅せしむる。 今後中國民族が若し果して單に天然力の淘汰のみを受くるものとせば、 一百年を支持し得るで あらう。けれどもその上に政治力と經濟力との壓迫を同時に受けたならば、恐らく十年を保つこ とも難しからう。故に今後十年間は中國民族は生死闘頭に在りとも云ふべく、 何等かの適切なる 方法を講することに依って、此處十年以内に政治力經濟力の圧迫から解説し得たならば、我民族は今後とも列強民族と併存することが出来るであらうが、若し然らずして、 我等に之等政治力艦 濟力の圧迫を解説するの方法がなかつたならば、 我民族は列強民族の爲に滅ぼされなければなら ないであらう。假令之が爲め直に全部滅亡することはないにしても、天然力のために徐々に満 汰せらるに至るであらう。故に今後中國民族は、同時に天然力、政治力及び經濟力の三種の歴 迫を受くることなる。即ち中國民族生存の危険の大なるを見るを得べきである。
中國の欧米の政治力經濟力の迫を受くる、まさに百年に及ぶ。 百年前に於ては滿人が我國家 に據り尚強盛を極めて居つた。當時英国は印度を滅したが、敢て来つて中国を滅ぼさんとせず、 却て中国の印度に干渉するを恐れて居たものである。けれどもこの百年以来は何うであらうか、 中國は幾多の領土を失ったのである。之を最近より過去に遡って見るに、最近失ったものに威海 衛、旅順、大連、青島 九龍及廣州がある。歐洲戰後列強は最近の領土を還附せんとするに至 り、青島は先づ還附せられ、威海衛も亦近く還附せられんとして居る。 し乍ら、 之等は中国の 一小地方に過ぎない。従前列は、中国は永遠に振ふ能はす、自らの力を以てしては再び自己を管 理することは出来ないものと考へて居たので、先づ中國の沿海地方の大連、威海衛、 九龍等の如 きを占領して一個の根據地とし、以て中國を爪分せんとしたのである。その後中國に革命起り、列強は中国の爲すべきあるを知つて、途に中國分割を断念した。 列強が中國分割を企圖しつ、あつた頃、一般の中國の反革命の人々は革命が却て分割を招来すべきを説き、その後革命の結果 列強の分割を招来せざるのみか、却って列強の中國分割の野心を打消すことにならうなどとは考 へ及ばなかったものである。之より少し以前に失った土地としては朝鮮、、 澎湖島がある。 これ等の地方は日清戦争の結果日本に割したもので、これがため列の中國分割論を引起した。 更にその少し前に緬甸及安南を失って居る。 安南を失った頃、中国は未だ多少の抵抗力を有し、 鎮南關の一戦には戦捷を得たものであつたが、その後佛に恐嚇せられて、之と講和し、喜んで 安南の地を割譲した。けれども實際に於ては、講和の数日前中國の軍隊は、立派に鎮南關に於て 大捷し、 佛國の全軍殆ど滅と言ふ状態であつたのだ。斯様に戦争に勝ち乍らも後になつて中國 から和を求めたものだから、佛人も頗る奇怪に感じたものらしい。で嘗て一佛人が中國人に 封して斯う云つたことがある。中國人のやるところは全く不思議で堪らない、各國の慣例では戦勝國が必ず戦勝の尊を表示して戦敗國に向って土地の分割及賠償金を要することになつて居る、 然るに中國は戦勝の日却て地を割いて和を求め安南を佛に送り、又種々なる苛店な件を定め た、これ眞に歴史上戰勝から和を求めた先例であると。中国が斯様な先例を開いた原因は、滿清政府のしく無智なりしに因る。 安南緬甸はもともと中国の領土であつたが、安南を割譲し て後、 中國の足許をみすかした英國は緬甸を占握したけれども、中国は一向これを責めやうとも しなかったものである。又少しく遡って失はれた土地に就いて言へば、黒龍江、烏蘇里の地があり 更にその以前には、先頃迄露極東政府の所在地であつた、伊犂流域、霍罕 (Khokand) と黒龍 江以北の諸地方とがある。之等も中國は手を拱いて外人に送り敢てこれを問はんとはしなかつ たものだ。この外琉球、暹羅 「ボルネオ」、「スマトラ」、「ジャッ」、「セイロン」、「ネパール」、「ア ータン」等の諸小國も、曾ては皆中國に朝貢して居たものである。斯様な次第で、 中國の最強盛 時代には、その領土は頗る大で、北は黒龍江以北に、南は「ヒマラヤ」山以南に至り、東は東 海以東、西は葱嶺以西に至り、すべてこれ中國の領土であつた。「ネパール」の如きは民元年に 至るも、四川省に進貢して居たが、元年以後西藏の道路が不通となったため、途に再び来なく なった。斯くの如く中國の最強盛時代には政治力四隣に威を振ひ、亜細亜大陸の西南各国は一 として藩と稱し朝資するを榮となさざるものなき有様であつた。その頃歐洲の帝国主義は未だ亞 細亞に侵入して居らず、當時の亞細亞に於ては帝國主義とも云ふべきものは中國の他になく、 故諸弱小國は何れも中國を恐れ、中国の政治力を以て圧迫せらるることを恐れて居たもので、そのの存するところ、今「アジア」各弱小民族は中國に對し餘り安心して居らないらしい。現蒙古の如きは今回我國民が廣州に大會を開くや代表を派遣したが、これは我等南方政府の對 外主張が依然舊来の帝國主義を踏襲するものなりや否やを見んとするにあったらしい。けれども 彼等代表は到着後案に相違して、我等大會所定の政綱が弱小民族の扶持にあり、も帝国主義的 意思なきを見たので大いに安心し、極力賛成の意を表し、互に聯絡して一東方の大國を建設せん ことを主張したことである。斯の如く我等の主張に賛成するものは、單に蒙古のみではない。そ の他別小民族は悉く同様である。それは兎に角として、歐洲列強は、その帝国主義と經濟力を以 中國を圧迫し、中国の領土は逐漸く縮少し本部十八省内さへも幾多の地を失ったと言ふのが 今日の状態である。
中國革命後、列強は政治力を以ては中國を分割することの極めて容易ならざるをつた。従前 滿清は中國を征服したけれども、我等中國人は革命を知つて居た。だから若し果して列強が依然 としてその政治力に依つて中國を征服せむとしたならば、我等中國が將來必ずこれに反抗するに 至るべく、斯くては列強にとつては頗る不利であると言ふところの考へが幾つて行つた。従つて 彼等は現在では幾分その政治力を以て我等を征服するの手を緩めて、改めて力を以て我等をせんとし始めた。そして彼等は政治力さへ用ひずして中國を分割すれば各園間の衝突を発 得るであろうと考へたものである。けれども彼等は中國に於ける衝突は或は免れ得るとするも、 歐洲に於ける衝突は遂に見るべきもないであらう。 何故なれば、「バルカン」問題は歐洲大戦を生 んだではないか。そして彼等はこの戰争に於て自ら豆多の損失を受け、又幾多の例へば獨壊の如 強は倒壊したにも拘らず、彼等の帝國主義は今尚依然として改革せられて居ない。英、佛、 伊の如き依然帝國主義を以て繼續進行しつつあり。 米國すらも「モンロー」主義を棄てて列強 に参加し一致的行動を執るに至ったではないか。歐洲大戦經過後彼等の中には一時歐羅巴に於てこそ帝國主義的行動を中止したものもあるが、中に封しては、数日前各國が二十餘隻の軍艦を廣 州に派遣して示威を試みたやうに、相變らず帝国主義の力を以てその経済力をせしめんとし つつある。經濟力の圧迫は政治力の圧迫よりも一層その力は猛烈である。政治力の圧迫は看破され易い。例へば、恰度今列強が二十数隻の兵船を以て示威した際の如きは、廣州の人民は立ど ころに痛を感じ民衆の公債を生み出し、惹いては全國人民の公憤を起すことも出来た。 これ政 治力の圧迫は容易にその痛を感じ得ると言ふ譯である。 けれどもそれが経済力の圧迫となると 仲々普通のものには容易に感ぜられない。 宛も中国が、既に幾十年来列強の經濟力の圧迫を受け
此度廣東と外とは關餘を争つてゐるが、この關餘なるものはもともと我等のものなるに 何故争のであらうか。 中國の海関が各国に横領されてゐるからである。 従前我等は海関のある ことなどは知らず、關を閉じて自ら守つて来たものであつた。その後、 英國が来つて關を叩いて 通商を求めた。當時中國は開閉して之を拒絶したものであるが、 英國はその帝國主義と經濟力 とを以て中國の關を打開し、中国の門戸を無理矢理に開放させたのである。 當時英國の軍隊は既 廣州を占領し、後廣州の足場に適せざるを見て、之を棄てて香港に去り同時に又賠償金を要求 したものである。そのとき中には賠償金とする程多額な現金がなかつたので、海関を常とし 英國をして収税を取扱はしめた。 當時清政府の計算では、償金の金額支拂のためには長年月を要する見込みであつた処、豈料らんや、 英國人が海關をその手に収め自ら收税を開始するや、 年ならずして、要求額の賠償金は「キレイ」に手に入れることが出来たのであつた。元來海關は 清朝の皇帝が、清朝官吏の腐敗しく従前関税の経理徴収に中飽の大悪癖のあることを知つてゐ たがため、全國海關を挙げて英國の管理にせしめ税務司亦英國人を派して之に當てることとし たものである。その後も皆それぞれ商務關係を有するに至つたので、英國人との間に海關管理 權を爭ふに至り、 英國之に譲歩して各商務の大小に比例して各国人を用ふることとなり、斯くて今日に至る迄全國海關はすべて外人の手にあるやうな状勢を誘致した。 中國は外國と約を締 結する毎に損失を重ね、約中の権利は總じて不平等である。 て海關の則の如きも悉く外 の定むるところであつて、 中國の自由に更改することが出来ず、中國のは中國人自らめ自 らふることも出来ないのである。これ我等がはなければならない所以である。
今各国の外来經濟力の圧迫に封し、我等は如何にに對峙すべきであらうか。平時各國に於て は外國經濟力の侵入に対しては、恰も海口に外來軍隊の侵入を防止するため砲臺を築くと同様、 彼等は海関を以て武器となし、本國の經濟的展を保護して居る。故に保護法なるものは、即 ち關を以て外貨を制するものであつて、本国の工業は文に依り初めて愛し得るものである。 米國の如きも紅蕃を滅して後、歐洲諸と通商してみたが、當時米国は農業國で歐洲諸國は工業 であったがため、農業を以て工業国と通商すれば、工業の勝利となるは必定。そこで米国では 保護法を創設して本国の商工業を保護したのである。 保護法とは他の輸入貨物に封し特別 重税を課するものであつて、例へば輸入貨物一百元のものに對し海関は各国の通例で五六十元 のものとすれば、それ以上の一百元乃至八十元の高を課するにある。斯様な重税を課する結果は 他國の貨物の価格を貴せしむることを得、本国にては到底販賣することが出来なくなり、一方本国の貨物は無我なるため價格低廉となり、從て賣行を良好ならしむることが出来るのである。
然らば我中國の現状は如何に。 中國は外と通商開始前に於ては、人民の所用貨物は一切自ら手 工を以て製造してみたもので、古人の所謂男耕女職とて農業と紡織工業とは中國固有のものであ つた。その後外国貨物の輸入せらるるに及び、 海関の軽い結果外来の洋布の価格低廉にして本 地産の土布の價格高きため、一般人民は好んで洋布を買ひ土布を用ひず、結局土布工業は洋布の ために歴倒せられて了つた。本國の手工工業もホ之につて失敗し、人民は働くべくも職業なく 多数の游民とじた。之れ外國經濟力壓迫の情形である。 今中國には依然手工織布はあるが、原 料にはやはり洋紗を用ひてゐる。 近來追々本國の棉花を用ひ外製の機械で糸を紡ぎ うになった。即ち上海の數ある大紡績工場大紡織工場の如きである。 本来れば、 これ等紡績 工場は外品を制し得べき筈であるが、何分海關が未だ外国人の手中にあり、我等の 土布は重税を課せられ、然も單に海関が重税を課する許りか、内地各処でも亦釐金を課せられて居 り、中國は獨り保護法なきのみか、事實に於て却って土貨に重税を課することに依って洋貨を 保護するの結果となって居るのである。歐洲戦争當時、各はその製品を中国に輸入することが出 来なかったため、一時上海の紡績紡織工場は異常な發達を示し、所得利益も極めて多額に上り、利益分配に與った資本家が非常に多かったが、歐洲戦後、再び各国の貨物が中國に輸入せられ中國品を圧倒したため、曾ては非常な利益を上げて居た上海の各紡績工場は、何れも損失続きの憂目を見るに至った。斯くの如く土貨が洋貨に打敗られても中國の税関は特に自らを保護しな い許りでなく、恰も自ら掘った戰壕を敵に奥へて自らを打たしむると同様、 却て外人を保護しつ つあるのである。故に政治力の圧迫は有形であるから如何に愚蠢なるものでも容易に看破し得、 應急の對策を講することも出来るのであるが、經濟力の圧迫に至つては、無形にして一般に之を 發見することは仲々容易なことではなく、 却て自分の力で自分を圧迫する結果となる。斯様な有 様であるから、中國の通商開始以来の輸出入貨物を比較するに、實に江河日に下るの勢にあり、 十年前の調査では、中國の輸出入貨物の差は二億元に過ぎざりしものが、最近の検査にかかる海関報告に據れば、一九二一年度輸入貨物は輸出貨物に超過すること五億元、十年前に比較して既 二倍の増加を示し、この分にて行けば十年後にも二倍を増加することとなるべく、その 輸入超過はまさに十二萬五千萬元に達すべきであらう。換言すれば即ち十年後には中國は、単に 貿易關係のみに於て毎年外国に對し十二億五千萬元づつ進資することとなるである。諸君何ん と大きな損失ではあるまいか。
經濟力の迫には、海関の外にまだ外國銀行と云ふものがある。 現在中國人は本國人の銀行を 信用せず、外國銀行を馬鹿に信用したがる心理がある。恰度この頃我廣東に於て中國銀行はも 信用なく、外国銀行が非常に信用があるのと同様な譯だ。従前我廣東省立銀行は紙幣を發行し相 當流通してみたが、この頃では「サッパリ」通用せず、我等は現に現銀のみを用ひてゐると言つ た有様である。従前中紙幣の信用は外國紙幣に及ばなかったものであるが、最近では中國の現 銀すらも外紙幣に及ばないこととなった。現に東に流通する外紙幣の數は幾千萬に達す べく、一般人民は一途に外國銀行紙幣のを願い、 中國の現銀の收藏を望ます、 上海、天津、漢口の各貿易に於ても、 おしなべて皆同様である。この原因を推究すれば、外国の經濟的圧迫に 中毒し居るがために他ならない。 我等は日頃から、外人だと言へば、昔金持だと思つてゐるが それは實際のところ、彼等が紙を持つて来て我等の貨物と交換して行くことを知らないからだ。 元来彼等は大して金を持つて居る譯ではなく、多くは我等が彼等に買いででもやつてゐるのと同 じやうなものだ。外国人が現在使用してゐる金は、印刷せられた幾千萬枚の紙に過ぎず、我等が 彼等を信用するため彼等が幾千萬の金を持つことになるのである。あの外國銀行の紙幣一元の印 刷費と言へば、ただの文に過ぎないであらうに、印刷されて出来上った紙の價値は一元と稱し十元と稱し又百元とも稱するのである。斯様に外国人は、最少の値を以て幾千萬元の紙を印刷 し、その幾千萬元の紙を用ひて我等の幾千萬元の貨物と交換に来るのである。 諸君試みに思へ、 この損失は何んと大きいものではないか。然らば彼等のみ斯くも多くの紙を印刷し得るに拘はら す、我等には文が出来ぬとは、又如何した譯であらうか。これ實に普通人がすべて外の 的圧迫に中毒して、ただ外を信用して自己を信用せず、我等の印刷した紙を適用させることが 出来ないからである。
外國紙幣の外に爲替の取組がある。 我等中国人は各貿易港にて爲替を取組むにも亦外國銀 行を信用し、中国の金を悉く外國銀行に持って行つて爲替の取組をなし、外國銀行は中國人に代 つて爲替を取組む。この外國銀行の爲取組たるや、その取組に當つて先づ千分の五の爲替手数 料を取り、外に無理矢理に兩地の銭價の莢を取る。又その支拂に當つては、その銀元と銀雨との 割引で儲ける。かくの如き價の元と両との割引による損失は、金及支拂の両方を合算す れば、必ず百分の二三以上に上るであらう。ここに例へば、廣東の外國銀行から一萬元を上海に 爲替で送金するとすれば、外國銀行は、先ず五十元の爲替手数料の外亳銀を上海の規元銀の餞價 に計算する。そして彼等は必ず廣東の亳銀の價格を低く計算し上海の規元銀の價格を高く見積り彼等の自由計算に依つて最少必ず一二百元は儲ける、而して上海に至つて金を支拂ふとき規元銀 は渡さないで大洋を渡す、彼等は規元銀を以て大洋を割引し必ず銀兩の市價を無理に低からしめ 大洋の市を釣上げて少くとも一二百元を儲けるであらう。かくて上海廣州の兩地間に一萬元 を爲替に取組むものとすれば、毎少くも二三百元の損失となる。従つて一萬元の金も、上海 廣州兩地間を往復して爲替を取組む場合は、最大三十回位で完全に烏有に化してふであらう。 人民のかくも大なる損失を受くる原因はと言へば、やはり外の經濟的に中毒した結果に外ならぬ。
外國銀行の中國に於ける勢力は、紙幣の發行爲替の取組の外、預金に在る。 中國人は金さべ あれば兎角銀行へ預けたがるが、その際彼等は中国の銀行の資本の大小利息の多少などを問はす して、一途に中国人經營の銀行と言へば、不完全なるを恐れて敢て預金しやうとしない。之に反 し、外國銀行に對しては、その信用の有無利息の多寡を問題とせず、唯外国人が經營し、外国の 看板を掲げて居さへすれば、定心丸を喫したるが如く安心し切って了ふ。そして金さへあれば を持つて行き、利息は極めて少くとも非常に満足して居る。ここに最も奇怪なるは、辛亥の起義 以後の皇室や一般補清の官僚達は、革命黨が彼等の財産を没収せんことを恐れ、凡ゆる金銀財寶を学げて各処の外國銀行へ無利息で預け、外国人がそれを受取って預かつて置いて呉れさへ すれば心から満足して居たもので、嬉しきに至つては、清浜が革命軍と武昌に戦って敗れたあの 数日と言ふものは、北京東交民の外国銀行に滿人の預けた金銀財竇はそれこそ夥しい額に上り、 その数も分らない程で、遂には北京の凡ゆる外國銀行は何れも滿銭の患あり、再び預け入るるの 餘地ないと云つた状態に至り、ここに於てその後の預金には、外国銀行は預金に対して利息を支 拂はざるのみか却て預金者から保管料を取ることとなつたが、何分預金者は外國銀行が預かつ てれればい」と云った有様であつたので、この保管料の如きも外國銀行の言ひなり法題であつ たとのことだ。當時の調査に操れば、 外國銀行が中国人の預金を受け入れた額は計十億乃至二 十億に達したとのことである。その後中國人は多少これを引出したであらうけれども、この數年來馮國璋、王占元、李純、曹錕の如き一般軍閥官僚が到る處でかき集め横領して蓄財したもの 各人幾千萬元に及び、彼等はその莫大な横領した財産を子子孫孫萬世の用に供せんが、やは り之を外國銀行に預け入れて居るから、今でも外國銀行の中國人の預金受入総額は、辛亥の年と 比べて大した増減はない筈である。外國銀行の有するこの十億乃至二十億の預金は、年年預金者興ふる利息は極めて少なく最高四五厘に過ぎず、而も之を外國銀行は、中国の小商人に轉貸して年年最低七八厘しきは一分以上の利息を借款人より収めてゐるのである。斯様に外國銀行は、 ただ經營の勞に任するのみにて、専ら中國人の資本金を用ひて、中國人から年年數千萬元の利息 を儲けて居る。これ中國人が外國銀行に預金するがために受くる無形の損失である。かく一般のものの外國銀行に預金する心理は、 中國銀行の不安全にして外國銀行の頗る安全なるを思ふから のことであつて、彼等はその休業したりつぶれたりすることに対しては頓と無頓着だ。ところが 事實は何であるか試みに問ひたい。現に中法銀行は營業を停止し中國人の預金は拂戻しせられ ないのであるが、中法銀行は外國銀行ではなかったか。これでも外國銀行の預金は安全であると言 へるか何うか。外國銀行にして既に不安全なりとせば、何故に我中國人は、尚も甘んじて中國の金を外國銀行に預金するを願ひ、年年かくも莫大なる利息を損失しつつあるのであるか。 この原因 を推研するに、やはり外国の経済的壓迫の中毒による。實に外国銀行の一つのみにても中國に在 て獲得する利益は、紙幣爲替取組及び預金の三種に依り。 まさに一億元前後にも上るであらう。 外國銀行の外に何ほ運賃がある。中国の貨物を外に運送するは固より外国船に依る。又漢口、 長沙、廣東の各内地に運送するにも外国船に依る場合が多い。日本の航業は近來非常に達した が、最初の頃は一日本郵船があつた許りだ。その後段々と東洋汽船會社、大阪商船會社、日清汽船社が出来、 中國内地を航行して全世界に航行するやうになった。日本の航業が斯の如く 達した所以は、彼等の政府が補助金を支出し、又政治力を以て特別に保護したがために他ならな い。 これを中に就いて見れば、國家が商船に補助することが何れけの利益があるであらうか。 恐らく何等利益はないであらう。日本は各国の經濟勢力と競争せんとして、水上の交通方面にあ つても、亦各國と約を締結し、運賃に就いても之を協定し噸の價格を定めてゐる。例へば 洲より亞細亞に貨物を運送する場合、 先づ上海に至り更に長崎、横濱に至ることになつてゐるが、 歐洲、上海間は、歐洲、長崎横濱間の路程に比較すれば、大分近いのである。けれども歐洲長崎横濱間の毎噸運賃は、各汽船會社で協定せられ非常に低廉であるが、歐洲、 上海間のそれは、中 國の航業が未だ彼等と對抗する迄に至つて居ないために、各汽船社の規定では非常に高い。 従 つて歐洲から長崎、横濱迄の運賃は、歐洲上海間のそれよりも、毎噸幾らか安いことになつてゐ る。断した譯で、歐洲の貨物が日本の市場で販賣せらるる価格は、上海に比べてやはり低廉で ある。之と反對に、中国の貨物を上海から歐洲に運ぶ場合も赤、長崎、横濱よりの運賃に比べて 幾何か高くなる。だから若し中國から一億元に相當する貨物を歐洲に運送するときは、中國は運 質のため一千萬元だけ計に要する譯である。斯様は計算すれば、一億元で一千萬元の損失となり、中国の輸出入貨物は毎年十億元以上に達するから、 この十億元中の損失も一億を下らないであらう。
此の外更に租界及割護地に於ける賦課地租地價の三項がある。この数もに少くなくない。 例へば香港、港、上海、大連、漢口の如き幾多の租界及割譲地内の中国人が、毎年外國人に納 めてゐる賦は少くも二億元以上に上るであらう。例へばの如きは、従前日本に納めて居た 税は毎年二千萬に及び、現在では一億に増加して居り、香港の従前英国人に納めた税は、毎年數 百萬に達し、現在では三千萬に増加してゐる。そして今後もこの割合で増加するであらう。 その中地租の一項は、中国人の收むるものあり外国人の收むるものもあつて各々幾何を得て居 るか、未だ正確な調査がないから知ることが出来ないが、總して外國人の收むるところの多きは 間を待たないところであらう。この地租の數は之を地に比ぶるときは十倍に達してゐる。 地價も年々増加の趨勢にある。そして外国人は既に經濟上の権を握つてゐることとて、自然その 財力も豊富となり商賣も圓滑に行くやうになり、租界の土地をく買っては之を高く賣る。故に この賦地租地慣の三項だけでも、中国人の受くるところの損失は年々五億元を下らないであ ろう。
又中國の内地に於て、外人の團體及個人の営業が、その約上の特権を振廻し、我等の利権を 侵奪するものに至つては、更に計算し難いものがある。 單に南満鐵道の一社のみに就いて言ふ も、年々の純利は五千餘萬に達し、その他各国人の種となる營業利益を併せ推算すれば、その数 特に一億以上にも上るであらう。
更に一損失がある。即ち投機事業である。租界の外人は常に中国人の貪婪なる弱を利用し、 日日小投機を行ひ、數年に一度の大投機を行つて中国人の賭博心を 熱狂せしむる。「ゴム」の投機「マルク」の投機の如き即ち之れで、その結果損をするのは何時も中國人で、その額は最 少數千萬元に達する。而して日々の小投機事業は少を積んで多きを成し。その額の幾何なるかを 知らない。 斯様な損失も赤數千萬元以上に上るであらう。戦敗の賠償金に至つては、日清戦争の 結果日本に送った賠償金二億五千萬兩、 庚子義和團事變の賠償金は九億両の巨額に達するが、之 は政治上武力壓迫の範囲に関し經濟圧迫に依るものと同日に論することは出来ず、而も之は一時 的のもので永久的のものではないから尚小事に屬する。 その他藩の損失出稼移民の損失に至つ てはその幾許なるやを知らないのである。
見來れば、これ等經濟的圧迫は真に激しいものである。
總てこれを合算すれば、その一、洋貨の侵入に依つて年々奪はるる利權五億元、その二、外國 銀行紙幣の我が市場侵入爲替取組に依る割引及び預金の借等に依り奪はるる利權一億元見當、 その三 輸出入貨物の運賃の割高に依りはる我利權約數千萬乃至一億元、その四租界及割 地の賦地租地償の三項目に依り奪はるる利權總計四五億元、その五、特營業に依るもの一 億元、その六、投機事業及びその他により剥奪せらるるもの數千萬元、以上六項の經濟圧迫に依 つて受くる我等の損失總計は十二億元を下らない。 この年々十二億の大損失にしてふべき法な しとせば、今後は年々増加する許りで、これが自然的減小は断じて期待し得られないのである。 故に中国は今日既に民窮財盡の地位にあり、若し速に之を救ふに非らずんば、 必ずや經濟的圧迫を受けて國家種族共に滅亡の外なきに至るであらう。
中国の強盛なりし時代に於ては、列邦より年々進貢し歳々来朝したものである。 そして毎年の貢は値大約百数十萬元に過ぎなかったが、我等はそれを非常な光榮としたものであつた。 宋朝に至り中國はへ却て金人に向つて進貢せねばならなくなった。そしてその金人に納めた貢物も 赤毎年大約百數十萬元に過ぎなかったが、我等はこれを以て非常な恥辱と考へてゐたものであ る。ところが現に我等は、外に対して毎年十二億元の貢物を送りつつある。 一年十二億とすれば、十年に百二十億である。この種經濟力の圧迫、かかる大なる進貢は實に我等の夢想だにし得ざるところであつて、之を看破するのは仲々容易なことではない。従て一般人は未だに之を大恥 辱と考へないのである。 若しも我等がかくも莫大なる貢物を送らなくてもよく、毎年十二億の我 等の自由に處分なし得る大金があったと仮定したならば、我等には爲すべき事業が何れ程あるこ とか。そして我等の配合は如何に進歩することか。この經濟力の圧迫がある許りに年々かくも大 なる損夫を受けつつあり、故に中國の社會事業は發達する能はず、普通人民の産業も亦興らない のである。實にこの種圧迫のみに就いて言ふも、幾百萬の兵を以て我等を殺すよりもその害更に 苦しいものがある。況んや外は、背後に更に帝國主義を把持して彼等の經濟的圧迫を實行しつ つあるに於てをやだ。かくて中國人民の暮しは自ら日に蹙まり游民自ら日に多く國勢自ら日に ふることとなる。
中國は最近一百年來既に人口問題の圧迫を受け、 中國の人口は餘り増加せず寧ろ減少して居る のに外国の人口は日々増加しつつある。 加之今や又、政治力經濟力に圧迫せられ、我等は同時に 三種の力の圧迫を受けて居る。若し果して更に適當なる排法に依り之が對策を講じ得なかったな らば、 中國の領土如何に大なりとは云へ、人口如何に多しとは言へ、百年後には必ずや亡國滅種、我等四億人の地位を永く萬古に存することは出来ないであらう。試みに看よ、曾て「アメリカ」大陸到るところに存在せし紅蕃は、今や全く滅亡せんとしつつあるではないか。故に我等は 政治的壓迫の激しきを覺ゆると同時に、経済的圧迫の更に激甚なるを鳴らねばならぬ。 幾千年來 中國は未だ曾てこの三つの力から一斉に圧迫せられた経験はないのであるから、我等に四億人あ り容易に人に滅ぼさるるとはなかるべし等と高を括って居る課には行かないのである。故に中國民族の前途の爲めに工夫を凝し、將に適當なる方法を案出してこの三種の力を打消さななければ ならぬ。



